zebraexの遍歴

読むかどうかはともかくとして

怒りの文章

今週のお題「ブログ川柳」

怒って書く
エントリ読まれ
非難され


私は怒っている。
何故かというとカウンターの上のガラス瓶を猫が床に落として割ったからであり、速やかに猫を別室に隔離し、飛び散ったガラス片を片付けているうちに自分が手に怪我をしたからであり、それを誰にも慰められなかったからであり、怪我の手当をして、今もまさにじんじんと血が滲んでていても一人だからである。

さて、何にしてもそうだが、怒りに任せて行動するとロクなことがない。ムキになって冷静さを失うと、勝負事であれば大抵負けることになっているし、人間関係も上手くいかない。なので、怒りにまかせて文章を書いてもきっとロクなものが書けないだろう、ということはわかっているが、文章に上手くいくも下手にいくもあるものか、という気にもなったので、今、私は文章を書いているのである。


ネットの文章を読んでいると、だいたいの人が怒っている。
人材派遣会社がピンはね率を上げただとか、公開してないだとか、GDPが上がったとか下がったとか、給与は下がり続けているだとか、若者が車を買わない、いや買えないのだとか、野党がくだらない質問をしたとか、逆に首相がすっとぼけた発言をしたとか、である。

いったいあのような文章はどのような心境で書かれているのだろうか、と思うことがあって、特に新聞社のそれは何のつもりなのかと私は訝しんでいる。

彼らは舌鋒鋭く政権の、権力の、社会の、その悪を叩きのめさんとばかりに筆を振るうが、実のところ省庁の中に記者クラブという私的なスペースを与えられ、そこに○○新聞という暖簾をたてて、御用聞きよろしく、権力の中に入り込んでいるし、彼らの給料と来たら、たかだかいい大学に入れなかったというだけで、平凡に勤勉にささやかに働かざるを得ない人間の数倍もあるのだ。

一体彼らのどこに、社会に対する怒りが湧き出る源があるというのだろうか。我々は八百長を見せられているのだろうか。

純粋な反権力の、例えばイギリスの貧民街の孤独なアナーキストなら、そう聞いて重いブーツを踏み鳴らして同意するところだろうが、あいにく私はそこまで単細胞ではない。
なので、何かしら特別な事情があるのだろうと思っている。


私の高校の先輩に新聞記者がいる。高校時代は秀才でならした人物であり、後輩の私にも腰が低く、人によっては卑屈に見えないこともないほど謙虚な人である。もちろん私はこの先輩を慕っている。

数年前、彼の結婚式があり、二次会に参加させてもらった。
私が座ったテーブルは、彼の高校時代の友人で占められていたが、他のテーブルは皆、彼の勤める新聞社の人間であった。

同僚の新聞記者達は、式とは違い、羽目を外したのだろう、乾杯の音頭でさっそくやらかした。詳しくは覚えていないので、大体で書く。
「えー、新郎は、我が○○新聞でも優秀な人材でありまして、その文筆たるや、デスクに全直しを命ぜられるほどであり、程なく文化部へと栄転されると、ますますその才能を発揮して、デスクの頭に怒りの湯気をたちこませるわけであります。…云々」

温厚な先輩は、新郎新婦の席でそれでもニコニコと、いやいや止めてくださいよ、とその、皮肉にもなっていない醜悪な言葉を場に和ませようとしていたが、それを聞いた私は腸が煮えくり返る思いであった。

誤解してもらっては困るのだが、私はその先輩の事をそれほど尊敬しているわけではない。なので、平気で「おい、煙草買ってこいよ」ぐらいのことは冗談で言ったりしていた。だが、あくまで冗談である。すぐに、フォローを入れたし、何より私は先輩のことが本当に好きだったので、先輩が「何言ってんだよお前」と笑いながらツッコミを入れてくれるのを待っていたのだ。

だが、奴らの態度と言ったらなんだ。そこに私の言う意味での愛情など、ない。ただのできの悪い後輩に対する弄りであり、愚弄である。

その後の余興も連中の独壇場であった。新婦を下品な冗談でからかい、乾杯のスピーチのような愛情のかけらもない冗談を応酬するのだ。

先輩がへらへらと上機嫌にしていなければ、場がどうなろうと、私は酔っ払ったフリをして連中の頭に一発入れていただろう。それぐらい私は怒っていた。


私達高校組は、上機嫌な様子で三次会に向かう新聞社の連中を見送った。先輩も私を気遣って「お前も来ないか?」と言ってくれたが、「あいつら全員殴っていいんなら行きますよ」と答えた。先輩は冗談と思ったのか、哄笑して「おいおいやめろよ」と昔の調子のまま言ったが、今回の私は本気であった。


帰って憤懣やるかたない気持ちで私は一人酒を始めたが、連中の態度が、まさに新聞記者を代表するものだ、ということにその時気づいた。

ようするに、怒りを文章にするということは、誰かを怒らせることに他ならない。政権を批判すれば、内閣のなんとかの筋の関係者の誰かを怒らせることになるだろうし、人材派遣会社の悪辣さを批判すれば、その会社で身を粉にして働く人間を侮辱することになる。

ようするに彼らは人を怒らせ慣れているのである。そして、そのような怒らせた相手の反撃を自らの正義を盾にして、(それを独善と呼ぶかどうかは、読者のマスコミに対するスタンスによる)防いでいるのだ。

確かに彼らこそ社会の木鐸であろう。そのような仕事がまともな神経をした人間に務まるはずがないのだから。

それでも私は、個々の人間の関係において連中の下品さを、醜悪さを、その精神の堕落を、非難せずにはいられない。
あの時、一発入れておけば、こういう文章を書かずにもいられたのだが。


さて、件のガラス瓶を床に落として粉砕した猫であるが、今、涼しげな顔で私を見ている。そこには反省の色も後悔も微塵もない。ましてや猫に「正義」などある筈もないのである。

私が猫を愛おしく思うのはそういうところにあるのかもしれない。