zebraexの遍歴

読むかどうかはともかくとして

沼の文章と無慈悲な風

今週のお題「私の沼」

私が文章を書こうと思ったのは、家にワープロがあったからだ。

ワードプロセッサと呼ばれるその大仰な機械は、父が仕事の書類を作る時以外は、忠実な室内犬のように座っていて、小学生の自分にその蠱惑的なキーボードを叩いて欲しがっているように見えたし、インクリボンは一刻も早く文章を活字にしようと待ち受けているように思えた。

私はその要求に応えて初めて文章を書いた。

何を書いたかは覚えていない。マセた小学生らしい捻くれて、それでいて精神の幼稚さが隠しきれないような、そういう文章であったろう。

私は印字ボタンを押して、ワープロ歓喜の声を上げながら「原稿」が荒い活字になるのを見守った。そしてプリントアウトが終わると、私はそれを大急ぎで母の元に持っていくのだ。


母は私の最初の読者であった。そして最悪の読者であった。

彼女は私の文章を一瞥すると、まず、その着想に驚いたふりをした。そして次に、文法の誤りを見つけて指摘した。
私は落胆した。単純に私は、活字になった文字と一緒に頭をクシャクシャと撫でて欲しかったのだ。彼女が、私に文章に対する執着を捨てさせるにはそれで充分であった。

しかしそうはならなかった。なるほど、母は教育者であったに違いない。彼らは可能性を尊重する。それがどれほど無意味で人生を蝕むものであったとしても。


文章とは何であろうか、と今でも考える。
かつてそれは儚い、ごく私的なものであったろう。過去の自分からあるいは死んでしまってから、誰かに届けるものだったに違いない。それはある特定の読者を想定していたであろうし、読み終われば打ち捨てられるものであった。決して、研究者や、現代の下品な読者の興味を引くとは思いもしなかったろう。

だが、現代の文章は違う。この文章もひっそりとこうしてインターネットに書かれている以上は誰かに読まれることをどこかで期待している。

誰にも読まれないように秘密のノートをつけるという人もいるかもしれない。そうした人は自分以外の読者を想定していないだろうか?怪しいものだ、と思う。秘密を書き綴る人は、きっとそれが誰かの目に触れた時を想像するに違いないのだ。
自分の内面が他人に覗かれる。まさかとは思うが、理解されることもあるのではないか、そういうか細い希望のようなものが現代の文章には漂っている。


本屋に行けば、無数の本がある。かつて山本夏彦は「新しい本は古い本を隠す為に書かれる」と言ったことがある。このどこに読むべき本があるというのか、途方にくれる他ない。

平積みになった、○○探偵の事件簿Part3とか、異世界ファンタジーのシリーズ物の合間をすり抜けて、私はブローティガンの詩とも散文とも小説ともとれない文庫本を手に取る。
ブローティガンのいいところは3つある

  • 一つの文章が短いこと
  • 形容が鮮やかであること
  • ピストル自殺していること

そう、文章を書くものはすべからく死を目指さなければならない。私もこの深い文章の沼の底に辿り着いたなら、一点の清浄の領域にある、あの白い砂をつかんで、すっぱりと人生を終えようと思っている。
想像ですらないが、その砂はきっと、泥の中にありながら、真っ白で、この世にある最も無意味な存在で、そこに眠りのように、私を引きずり込んでくれるだろう。

ブローティガンの「芝生の復讐」を持ってレジに向かう。カバーをつけてもらう。袋は断った。ジーンズのポケットに乱暴にねじこむ。

ゆっくりと読むのだ。
いつの日か、ブローティガンに最後に吹いた風が、ここまでやってきて、アルコールと抗うつ剤ですっかり汚染されてしまった体を、膨れ上がった腹の肉を、萎え切った足の筋肉を、すっかり無意味にしてしまうに違いない。

彼はずっと風上に立っている。