zebraexの遍歴

読むかどうかはともかくとして

爆破するものがない

今週のお題「晴れたらやりたいこと」

私のように世界に怨恨を抱いた生き方をしていると、晴れた日に50kgのTNT火薬と時限発火装置を埋め込んだボストンバックを持って悠々と街を歩き、この社会の中枢の、憎むべき体制の中心にそれを投げ込んで、緩慢な足取りで近くのドトールコーヒーか何かにしけこんで、それが爆発して世界が崩壊するのを、ドッピオのエスプレッソを飲みながら眺めたいという思いがあって、実際、そういう空想をよくする。

だが、空想の中で私がボストンバックを投げ込む先を探してみると、それが思いの外見つからないことに困惑する。
確か昔、それは三菱重工ビルであったり、片っ端から大学を爆破してみたり、連邦政府ビルを爆破してみたりといった事例があるものの、どうにも、それが世界の中心の体制を揺るがす行為だったとは、私には思えず、このボストンバックにある50kgくんだりのTNT爆薬では結局何もできぬのではないか、という思いは強くなるばかりである。

例えば、資本主義の中心たる東京証券取引所を爆破してみたところで、おそらくは、仕手筋と化したトレーダー達が狂喜の雄叫びをあげて、空売りをしかけて、大儲けするだけであろうし、国会議事堂にしかけても、その前に陣取って共謀罪反対を唱える某の団体が表向きは「我々はテロリズムに与するものではない」と言いつつ、哄笑し、政府もまた、生き残った閣僚が鎮痛な面持ちで、「テロリズムとの戦いに勝利する」と宣言して、彼らを始めとした、都合の悪い反体制勢力の締め付けの口実に使うだけであろう。

あながち、丸善の洋書の上に檸檬を置いて出ていったなんとか基次郎あたりの態度が正しいと言えるのかもしれず、あの神聖な果実も今となっては、唐揚げの上にしぼるか、しぼらないか、という議論のネタにされるだけであり、大正もまた、遠くになりにけりというか、全然違う話をしてしまった。

とにかく、空想の中で、ボストンバックを持ってウロウロしていた私も歩き疲れてしまった。どこにしかけても社会も歴史も変えようがないのだから、こうして、晴れた日は、堤防の上にでも座って、静かな湾内の海を見ているぐらいがちょうどいいのではないか、という心持ちもするのである。

そうして私はボストンバックいっぱいに詰められたレモンを一つとる。
穏やかな海を眺めながら皮ごとかじると、青臭い鮮烈な酸味が口に広がって、確かに私を浄化するのだ。なるほど、私が爆破したかったものは自分自身なのかもしれない。
と、ここで月並みな空想は終わるのであった。