zebraexの遍歴

読むかどうかはともかくとして

彼が為の道

1

午前6時きっかりに目を覚ました。ベットから抜けだした私は、顔を洗い、歯を磨き、シェービングジェルを塗って髭を剃った。剃刀の切れ味が悪くなっていて、時々それは髭を引っ張って私に苦痛を与えた。

朝食を食べ終え、スーツに着替えると7時17分だった。5分の余裕があった。いずれにせよ乗る電車の時間は決まっているので、意味のない短縮ではあった。

外はもう初夏だというのに少し肌寒い。同じようなスーツに身を包んだ男性や、ヒールを履いた女性が、早朝の街にせわしない足音を響かせている。そのまばらな集団は一人の例外もなく駅に向かっている。

改札までの階段を登り、定期をかざしてホームに辿り着いた私は、前から3両目の扉の位置に整然と形成された列の最後尾に並んで電車の到着を待った。前に並んでいるのは新聞を読む者と、スマホの画面を眺めている者たちだ。彼らが違った事をしているのを私は見たことがなかった。

ふと、甘い香水が匂った。私の後ろに並んだ女の物だった。私は振り返って女の顔を見た。長い黒髪をして、少し太めの眉をした女が立っていた。目の周りのきつい墨色は意思の強さを強調しようとしたのかもしれないが、私が見る限りそれは彼女の生来の優しい印象を変えるのに成功しているようには思えなかった。

やがて到着した電車は乗客を満載していた。降りる者は誰もいなかった。
列の先頭にいた禿頭の男が躊躇なく混雑した車内に乗り込んだ。私も歩調を乱さずに電車に乗り込んだが、もはや車両にほとんど余裕はなかったので、私は前へ踏み出した足に力を込めて乗客を奥へと押し込まなければならなかった。後から乗り込む乗客も同様だった。あたかも意地悪な大男が車内の一角で通せんぼをしていて、その男と皆が力比べをしているような様子だった。

私の胸に甘い香水の女が寄りかかった。彼女の甘い体と私との間にほとんど隙間はなかった。その女は私と、スマホを見ている若者とに挟まれて苦悶の表情を浮かべた。
乗客のほとんどが車両の隅で王女か何かを守っている大男のことなど気にもしていないというのに、彼女ときたら、恨めしそうに私のほうを見上げるのだった。
私はその目線に合わすことなく、中吊り広告を見ているふりをした。
新社会人向け合同企業説明会が東京ドームで行われる。有名企業も多数参加するのだ。

女が私の前でモゾモゾと姿勢を変えた。私は自分が勃起していることに気づいた。

2

ようやく目的の駅に辿り着いた。私が降りようとするまでもなく、無数の人が出口に殺到するので、私はその流れに身を任せるだけで良かった。

彼らが向かうのは、ほとんどの例外もなく巨大なビルが林立した地域で、私の職場はその中でも一際大きな総合電機メーカーのビルの中にあるのだった。


始業の30分前にデスクに座り、いつものように私は今日の作業を付箋にしてパソコンのディスプレイに貼っていった。やや遅れてやってきた同僚がその様子を見て言った。
「今日も多そうかい?」
「そうみたいだ」私は顔を上げずに言った。
「また情報システムのプロジェクトが立ち上がるらしいぞ」同僚はうんざりしたような口調で言った。何度目かの販売管理システムの刷新で、社内のITシステムを統括する私の部署でも、関係部門や外注の連中とのやり取りが増えることになりそうだ、というような意味のことを彼は忌々しそうに呟いた。「気晴らしが欲しいところだな」付箋を貼り終えた私は彼に向き直った。「飲み会でもやるのか?上司連中の自慢話を聞くだけだぞ」と彼は訝しげだった。

私は黙々と作業をこなしていった。たまに上司がやってきて、私達が居眠りや雑談をしていないのを確認すると満足そうに帰っていった。

昼休みの放送があって、節電の為、オフィスの電気が消された。太陽は上りきっていて、その光が窓から差し込んでくるが、それでも巨大なフロアは薄暗くなった。

私はエレベーターを降りてビルの1階にあるコンビニに向かった。

コンビニは同じような格好をした社員でごった返していた。しかし、弁当やサンドイッチも需要に合わせて大量に積まれているので、在庫がなくなる心配はない。
私はミックスサンドと牛乳を持ってレジに向かった。
ふと目の端にあの女の姿が写った。女は即席スープが並べられた棚の前で、商品を吟味しているようだった。
私は足を止めて、しばし彼女に気取れないようにその姿を見ていた。
電車の中とは違って、服装の乱れもなく、長い髪はまっすぐ背中に落ちている。
私は彼女の胸に付けられている社員証を見た。緑色のそれは正社員ではなく、派遣や協力会社の社員であることを示していた。
朝、電車で香った甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

彼女が顔を上げる前に私は棚の横を通り過ぎた。そしてレジで会計を済ませ、システム管理部門のある階に上がっていった。

3

翌朝も目覚めは悪くなかった。
私はベットの上で、パジャマをめくって自分の下半身を確かめた。しかし中年の膨れ上がった腹の下にあるそれは、乾燥した果樹のように萎びていた。

ホームにある3両目の扉の前に立つ。私は彼女が後ろに立つのを期待したが、煙草の匂いを漂わせたくたびれた中年の男がやってくると、こちらに当たるのも構わずにスポーツ新聞を乱雑に開いた。

規則通り、電車がやってきた。後ろの男に触れられたくなかったので、私は自ら満載された乗客の中に肩から割り込んでいった。強引に進む私に幾人かの乗客が舌打ちをした。
それでも構わず私は、圧縮された人の中をナイフのように切り裂いていった。そして目的のものを見つけた。

あの女が吊革につかまって強張った顔をしていた。私は歩みを止めた。後から来た乗客がさらに私を押してくるが、私は革靴の足先に力をこめて、踏みとどまった。
またあの甘い香りが漂ってきた。私は彼女の後ろにぴったりと体を密着させると、顔を上げて、中吊り広告を見た。
ネイティブによる個別指導の英会話教室、チケット制なので、多忙な方でも安心!

女がこわごわと顔をこちらに向けているのがわかった。その目は怯えているのだろうか。こころなしか、密着させた体が強張ったように感じ、私はさらに反対側の中吊り広告に目を走らせる。
新発売の栄養ドリンク、乳酸菌が10億個含まれていて、それは腸に生きたまま届きます!
無意識に喉が鳴る。私は荒い息を彼女の首筋に当てざるをえなかった。
私は、ゆっくりとズボンのジッパーを開けた、屹立したそれがごく自然に彼女のスカートに当たる。
先端の感覚が、それが思いの外、軽い生地であることを私に伝えた瞬間、全身が痺れるような感覚に陥った。

車内に嗚咽が響く、周囲の乗客が訝しげな表情で、泣いている女を見る。そして、その視線は、すぐに彼女に下半身を押し当てて呆けたような顔をしている私に向けられる。
「おい!お前何してんだ!」
駅に着いた電車が止まり、慣性の法則で、乗客が一斉に同じ方向に動く。
誰かの手が私を万力のような力で掴んだ。
「早くこいつを降ろせ!」
声が、戸惑いの様子が、車内のあちらこちらから聞こえてくる。
乗客が、ホームにいる群衆が、若い男に引きずり出された私を、呆然とした私を、気味の悪い昆虫を見るような目で見ている。

振り向くと、泣きじゃくる女の姿がある。甘いあの非正規の香りを漂わせていた女が、中年の女に抱きしめられて慰められている。
電車の脇を、駅員が見たこともないスピードでこちらに走ってくる。私を掴んでいる男の手がそれを見て一瞬ゆるんだ。

私は彼の腕を跳ね飛ばした。そして走り出す。2両目、1両目、乗客の息で曇ったガラスの向こうの視線が、一斉に私を追っている。
先頭車両を追い越して、私は躊躇なく、線路に飛び降りた。

4

駅員が叫び声を上げた。ホームから無数のどよめきが響く。
飛び降りた両足に予想外の衝撃がある。私はよろめいたが、すぐに立て直し、電車の進行方向へ走り出す。
息が切れる。体が重い。時刻は始業45分前ほどだろうか。
革靴がレールに敷き詰められた石を踏みつける度にしなって私の指先を痛めつける。

私は電車が追ってこないことを不思議に思った。そうか電車は発車できないのだ。なぜなら線路上に私がいるからだ。

ここは私の道だ。
私の為だけに用意された道なのだ。

恐怖と錯乱の中で、私は味わったことのない開放感と自由を感じている。
私は走り続けている。

やがて、初夏の太陽がレールの向こうからくっきりと現れて、その清浄な光が私の姿を滲ませ、溶かしきってしまうだろう。
そしてその時、もはや誰にも私の姿は見えなくなるのだ。